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経験はしておくものだ。失敗があっても、それは経験という豊かさにしかならないのだから。

私は長いこと、自分に自信がなかった。
でも、ある時に、言われたことがある。

「自信がないように見えないけれど?
そっか、海外に住んだりして、いろいろ経験しているから、
知っていることが多いからだね」

確かにそうなのかも。
自分に対する自信がなくても、でも、「何かを経験したこと」が
いつの間にか私を支えることになっているのだと思う。

目次

ティラミスを知らないことで、人生は損しているだろうか?

あるカップルの会話が耳に入ってきた。
女性が「ティラミスって何?」と男性に聞いていた。
男性は、「ティラミス知らないの?」と笑いながら説明していた。

そっか、ティラミス知らない人っているんだ。
かなり前だけど、すごく流行った時期があったよね。その時代に生まれてなかったからだろうな。

男性は、「何にも知らないなあー」といいながら、
優越感を持っている感じがして、ちょっと得意そうで、それを見ながら私は納得した。
確かに「知っていることが多い」ことは、自信になるんだな、と。

私が言われたように、海外の経験が多い分、
私は自分に自信がないと思っていても、
その経験が自信があるように見せてくれる、というか

私の世界を確実に広げてくれていたわけだ。

ティラミスを知っているのと、知らないのでは、
人生は大きく変わらないかもしれないけれど、
でも、ティラミスという美味しいものを知っているだけで、
私の世界に、キラキラしたものが一つ増える感じがする。

経験というのは、そういうキラキラしたものを増やすことなんじゃないかと思う。

経験が、私たちを作る

フランスに住んでから知り合った、イギリス人の年配のご婦人がいる。
彼女は、とても美しいロイヤルイングリッシュを話され、
お名前を聞いても、その名字は絶対由緒正しいお家ですよね、とわかるくらいで、
絶対上流階級出身だ。
最初、こんなすごい方が、私の夫の英語を聞いたら、絶対に「下のもの」だとわかるので、
相手にされないだろうと思っていた。

ところが、彼女サラと夫はなぜか意気投合して、仲良くしている。
不思議だ。上流階級だと、逆に差別意識がなくなるからねと夫は言っていたけれど。

ある時、夫が教えてくれた。
「サラって、スクウォッターしてたんだって」

本当に!?なんだって、サラがスクウォッターする必要があるのよ?

流行ってたんだよ、あの頃、と夫。

スクウォッターとは、空き家に不法で住み着くこと。
私がイギリスに住み始めた25年近く前にも、まだ普通にいたけれど、
多分、サラが若かった60年代には、もっといたはずだ。流行するくらい。

いい空き家が見つかれば、警察とかに見つからない限り快適に暮らせるし、
うまいことやって、隣家の電気をうまく繋いだりして、お金も払わずに普通に暮らせるという。

 

ウッディ・アレンの「ミッドナイト・イン・パリ」という映画で、
主人公が1920年代のパリに憧れていていたけれど、
そんなふうに、古い時代に憧れを抱くとしたら、私にとっての憧れは絶対1960年代だ。
あの時代の、ロンドンとかニューヨークとかの演劇活動は、絶対に楽しかったはずだ。
考えてみたら、きっとサラは、あの時代が青春時代で、しかも彼女もアーティスト。
どんなにお金持ちでも、スクウォッターしたくなっちゃったのかも。


そっか、そういう経験もあって、
子連れ再婚もして、フランスに移り住んだりもしたサラだから、
夫とも気が合うんだ。

いろんな経験をすることで、
対応できる人間関係のキャパシティだって増えていく。

 

同じような境遇にあっても、サラのようなお嬢様なら
上流階級の中で生きる選択をしている人が多いはず。
そういう人と夫は気が合わないかも知れない。

何にしても、そんな環境で育って、
スクウォッターをしたなんて、サラは勇気があると思う。

経験が私たちを作る。それは間違いない。
それがサラを私たちにとって魅力のある存在にしている。

知ることは、コンフォートゾーンを広げてくれる

私たちの世界が、私たちが知っているものでできているとしたら、
そしたら「知ること」は、確実に私たちの世界を広げる。

それはコンフォートゾーンを広げることじゃないかと思う。

たとえば、一度行ったことがあるレストランが、次には安心して入りやすくなるように。
そうやって私たちは、物理的にも身体的にも、快適な場所を広げていくことができる。

私のイメージで言えば、一つの経験で「キラキラ」が一つ増えていく。
そしてそのキラキラが増えれば増えるほど、私たちの場所は広く快適になっていく。
知っているから安心できる。
その安心感が、自信にも見えるのではないかと思う。

だから、私が自分に自信を持っていたわけではなくても、
経験というキラキラが増えていたから、

私には、快適な場所が大きかったんだ、と思う。

キラキラはなんでもいいし、どんなところにもある。
好きなことならいつの間にか増えていく。

音楽でも料理でも、スポーツでも、なんでも。
サーティーワンのアイスを全部食べたことがあるとか、
いろんな神社に行ったことがあるとか、
とにかくなんでもいい。

全ての経験に当てはまる。

 

一見マイナスな経験も、やっぱりキラキラ

そう考えると、
私のマイナスな経験も、全部キラキラだと思う。

失恋も、犯してしまった失態も、全て。
仕事も、ちょっといじめられるような感じで、辞めるように追い込まれた経験もしているし、
初めての会社員の仕事も、病気で続けられなかった。
そういう経験も、しておいてよかったと今では思う。

日本でドラマセラピストとして活動を始めてからしばらくして、
ビジネスコンサルみたいなことをしている方が、
私の履歴書を見て、とてもよくないと指摘してくれたことがある。

私は、ドラマセラピストとして、いろんな施設でインターンもしていたし、
いろんなところでワークショップをしていた。
その経験は私にとっては宝物のようなものだったけれど、
彼は言った。
「これだけたくさんのところで、仕事をしていたというのは、
相手に悪い印象を与えますよ。一つのところで続けられていないという」

履歴書はシンプルなほうがいいみたいな感じだったけれど、
私の場合、やってきたいろんなことを詰め込みんだとしたら、
コンビニとかで売っているあのオーソドックスな履歴書では、全然書く欄が足りなくなる。
彼はいい人だったので、私は履歴書を使ってはダメだと教えてくれた。
当時の私は、イギリスの大学で覚えたように、自分で作った履歴書を使っていたけれど、

確かに職歴あたりがやたらと長かった。
彼に指摘されてから、略歴をまとめて文章にして使うようになった。
と言っても、それ以フリーランスになっていったため、
履歴書自体あんまり使う必要もなかったけど。

でもさ、職業の経験場所が少ない、つまり一つの場所での経験数が長いことだけが
いいと思うのはもったいないと思う。

だって、いろんな場所を経験していると、それだけキラキラが増えるし、
いろんな人を見ているから、やっぱりキラキラが増えている。

仕事がなくなっても、
ハローワークの利用の仕方を知っているとか、給付金を受け取るとか、
そういう体験も全部キラキラになると思う。

一つの場所にいることが悪いわけでもないし、人によってキラキラを増やす方法は違う。

自分に自信がなくても、知っていることが増えれば、
安心して活動できる場所が増えるから、結果、できることも増えていく。
それが、ほのかな自信にもなっていくんだと思う。

だったら、失敗があっても、
いろんな体験をしていると考えたら、自分が豊かなんだと思えないだろうか?

失敗でもなんでも、キラキラを数えてみたら、
もっと自信を持ってもいいのかも、とも思えるかもしれない。

 

経験の価値は自分が決めていい

これを書きながら
もう一つ思い出したことがある。

それは、私が日本の大学を中退して、
イギリスに留学するため、
イギリスに向かう飛行機で、隣の席に座ったビジネスマンの人と
お話ししていた時だ。

飛行機の中にいると、
私はほぼ100%の確率で隣の人に話しかけてしまう。
隣にいるのに、何も話さず10時間以上を過ごすのが
あまりにも不自然なことだからだ。

大体会話は、
どこに何のためにいくのか、という会話になるため、
私も留学する話をした。

すると彼は言った。
「へえ、頑張ってね。あっちの大学を卒業するのは大変だからね。
卒業できないと、君は、高卒が最終学歴になるわけだ。
そうすると履歴書は高卒ってことになるね。
大学中退って書いたら、みっともないし、就活で雇ってもらえないからね。
少なくとも卒業と書けるほうがいいから」

その時私は、頑張ります、みたいなことを言ったのだけれど、
そのことを思い出し、ずっと後から
なんだか腹が立ってきたのだ。

見ず知らずの人に言われることではないし、
そもそも、大学の中退はみっともなくない!
自分が残したい経歴を、ちゃんと自分のために表現すればいい。

留学中、中退してしまった友人はいる。
それは経済的なことだったり、
勉強についていけなかったり、いろいろ理由はあるだろうけれど、
でも、確実に言えることは、
彼らがものすごく苦しかったし、悩んだということ。

自分が歳をとって、ますます思うけれど、
もしも履歴書に、
日本の大学を中退して、さらに海外の大学も中退したという
その経歴を見たときに、
私はきっと思うだろう。

日本の大学をやめて、海外に挑戦する勇気があったんだな。
でも、それを成し遂げられなかった。
悔しかっただろうな。
自分が一番自分を許せていないかもしれない。
だから今度こそ、頑張ろうと思って、新たな挑戦をしているかもしれない。

これは私が、海外留学を経験しているからこそ思えることだ。
経験をしていることで、
やっぱり見方が変わるし、中退というその文字のなかに、
もっと複雑な心のストーリーも想像できる。

短絡的に、こいつダメだななんて、思わなくなる。

そういう深さは、順調な道にいただけでは
絶対に得られないものだ。

それに、経験の価値は自分が決めていい。

それを失敗とするのか、キラキラを増やした経験とするのかは、
自分次第。

コンフォートゾーンを広げることで、私はもっと豊かになれる

人と比べる必要もない。
いわゆる「順調」な生き方が悪いわけでは絶対ないし、
仕事をわざわざ変える必要もないし、仕事の数を増やす必要もない。

でも、自分が「知りたい」と思っていることや、
否応なしに放り込まれてしまった環境で、知ることが増えていくことで、
私たちのコンフォートゾーンは確実に広がる。

そしてそれが、私たちを豊かにしてくれる。
そう、失敗はやっぱり私たちの豊かさにつながっている。

きっと、人生が終わるときにこう思うはず。
いろんなことを知れてよかったなって。

だからやっぱり、ティラミスを知っている人生の方が、お得なんだと思う。

今日もお読みくださりありがとうございました。

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